御堂筋の歴史
御堂筋周辺の建物は高さ百尺(約31m)までに制限され、整然とした景観がつくられました。これは、都市政策論の学者であった当時の關一市長が、パリをはじめとするヨーロッパの都市を模範として計画されました。
1995年(平成7年)には、御堂筋沿いの壁面を4m後退させるなどを条件として、軒高50m、最大高さ60mにまで緩和されました。
現在では、いちょう並木が大阪みどりの百選や大阪市の指定文化財に指定されるなど、大阪を代表するまちなみとして市民に愛されています。
注)参考:関西廣済堂プランニングセンター編「御堂筋遊歩」1998
写真:写真下に注釈あるもの以外すべて「写真で見る大阪100年」(1989 大阪都市協会)
〜明治期:建設以前の御堂筋
大阪は船場地区を中心に発展しました。1596年に南御堂、1597年に北御堂が創建され、1598年からは秀吉による城下町整備が行われました。
江戸期に入ると、住友・鴻池・淀屋などの豪商が活躍しました。金融の今橋、薬の道修町などが形成され、懐徳堂、適塾といった学問所ができ、活気ある街になりました。
水運が発達し、江戸期を通して「天下の台所」として発展した大阪(当時は大坂)の道は、大坂城へと続く東西の「通り」が主要動線で、当時の御堂筋も、多くの問屋が軒を並べる賑やかな筋でしたが、幅がわずかに3.3間(約6m)と、とても狭いものでした。
拡幅前の御堂筋
立ち退きが完了した北御堂付近
明治期においても東西軸である「通り」が交通の中心でしたが、梅田と難波に駅ができると、南北軸の必要性が高まりました。
1921年(大正10年)、第7代大阪市長關一(せき はじめ)により、大規模な都市計画事業が打ち出されました。
莫大な資金が必要な事業は「受益者負担」を伴いました。工事予算の大半は立ち退き料に使われたそうです。
※受益者負担金制度
御堂筋が通れば沿道の商家がどのくらい利益が上がるかを計算し、その額に応じた金額を税金として収めてもらうこと。